先日髪を切りに行ったら、なぜかリースを頼まれたので作ることになりました。
リースを作ったことはないんですが、とても自然な感じで言われたので、なんだかこちらも流れるようにOKしてしまった。来月のカットのときにはリースをおさめることになっています。
これから素材を集めて試作ですね。
どんなものができるか私もわからないけど、気に入ってもらえるかな?
こういう季節のお楽しみごとって何だか気持ちが充実しますね。
どんなに小さなことでも、ふと拾い上げて一緒に楽しめることがうれしくなります。
画像削除から気づいた法則
でね、少し話が飛ぶようですが、最近かれこれ8年以上使っているPCの画像を整理しています。
私はPCは仕事の画像がほとんどなので、「もういらない画像(仕事)」をどんどん削除しています。
その削除した大量の画像を見ていたらすごいことに気が付いたんです。
迷って受けた仕事って、結局実になってない。
これ、確実。
削除した画像の中に迷いなく受けたものは1枚もありませんでした。
これすごくないですか?
私は洋服を買うときは「迷ったらやめる」と決めているので、迷った時点で買いません。
でも仕事って、依頼や注文によっては迷うんですよね。
(あるいはプライベートのお誘いとかもおなじでは?)
できない仕事はそもそもできないんだから迷いません。受けることができないから。
問題は「できるけど・・・」のときです。
できるけど、何?ですよね。
できるけど、に続くものは状況によって、たぶん無限にある。
そういうお仕事を受けた結果、実にならなかったのは「迷いのエネルギー」があったからかもしれないけど、「実にならない」という要素をあらゆることからどこかでキャッチしていたのかもしれません。
よく成功者になりたければメニューを決めるのも即決しろ!とか言いますよね。
「いやいや5分くらい考えることあるし。」
「即決して食べてやっぱりあっち食べればよかったって思うことあるし。」
「成功者ってハズレメニューを引かないの?」
ずっとそのように思っていたけれど、画像削除をして体感としてわかった気がします。
迷ったらやめる。
だって迷って受けても実にならないんだから。
それがわかったらこれからは断れる。
楽しいお誘いも日程的には行けるけど、(迷う時点で)お断りする。ことにする。
この暑い中、大量の画像を削除した以上にとてもすっきりしました。
お仕事で実になるとはどういうこと?
すっきりした後にふと、「あれ?わたし、実になるってどういうことだと思ってるんだろ?」と気になりました。
仕事をして「実にならない」というのは成果がない。お金にならなかったイメージですけど、じゃあお金になればいいのかと言われれば、そうでもなくて。
お金にならなくてもいいと思えることもあるなぁ。
それはどんなときかと言うと、やはり喜んでもらえる、ともに楽しめるときかな、と思います。
「こんなものができたよ」「いいねぇ」みたいな。
「こんなことできる?」「できるよ」「うれしいねぇ」と言い合いたい。
甘いですかね?でもわたしはこんな仕事がしたいです。
おさめた後「よかったな」「うれしいな」の気持ちが滴るようなお仕事。
それを求めるのはすごく難しかったり、レベルが高いことなのかもしれないけれど、
きっととてもシンプルで簡単なこと。
目の前の季節をどう楽しんでるかと同じことのような気がします。
自分がお仕事を即決するなんて、一体どんな強い精神力を持ったときだろうと思っていたけど、違ったな。
もっともっと軽やかなもの。
散歩しながら気の向くままに草をつむような感じ。
近いうちにリース作りを楽しもうと思います。
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